鴉の爪

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彼女らの魂に安らぎあれ

バーチャルYoutuberキズナアイをめぐる一連の議論は、何の教訓も引き出せずに擁護・批判する両陣営が傷つけあうような、個人的に大変残念な方向に着地しつつあります。以下、そうなった理由を自分なりに考えて書いていきます。
尚、本件ではフェミニズム的観点に問題を局限するため、既に多数が活躍している男性バーチャルYoutuberについては、その大半を意図的に無視していることを付言しておきます。ごめんなさい。


1.キズナアイの主体性に関する誤解
太田弁護士をはじめとするフェミニスト論客たちが誤ったのは、「キズナアイが性的表象であるか否か」の点ではなく、「キズナアイに(女性としての)主体性が存在するか否か」であると考えます。結論から言うと、キズナアイには明白な自我と主体性が存在しており、そこが既存の所謂「萌え絵」との唯一にして最大の相違点でもあります。しかし、殆どのフェミニストたちはバーチャルYoutuberに対して無知であったために、既存の「萌え絵」とキズナアイの区別がついていませんでした。

キズナアイは、Activ8株式会社が2016年に開発した3Dモデルであり、「人工知能」を自称し、普通のYoutuberと同じように企画などをこなしていくというスタイルが過去にない*1ものと受け止められ、局地的な人気を博すに至りました。
2017年12月には後発のバーチャルYoutuberである「輝夜月」や「ミライアカリ」が登場し、VRChatなどお手軽に3Dアバターを利用できるツールの普及も相まって、アマチュアも巻き込み爆発的なブームを引き起こしていきます。

キズナアイの動画は、既存Youtuberの「〜をやってみた」ような企画ものと、ゲーム実況ものに大きく分けられており、チャンネルも動画の傾向に合わせて分割されていますが、いずれの動画にせよ、既存Youtuberが用いる程度の「脚本」は存在すると推定されているものの、基本的にはキズナアイのアドリブで成立しており、キズナアイの「中の人」は実質的にキズナアイ本人とイコールであると見なされています。幾つかの動画においては、脚本を無視し当人のアドリブのままに暴走するようなシーンすら見られます。

アニメキャラを主人公として利用した既存の動画類では、アニメ絵を設置し合成音声に喋らせる(ゆっくり実況など)、音声はなく文字のみで解説を行うなどの手法が一般的でしたが、キズナアイの最も画期的な点として、声優や演者の情報を徹底的に秘匿することにより、演者を≒キズナアイ本人とし、イベントでのトークや生放送での雑談、Twitter等のSNSによるファンとのコミュニケーションを、動画上の「キャラクター性」を損ねることなくシームレスに結合することに成功したことが挙げられます。単なる「アニメキャラ」ではない、自我を持つAIとしての「キズナアイ」のアイデンティティは、日を追うごとに強固なものとして成立していきました。

故に、「キズナアイ」は碧志摩メグのような「萌えアニメキャラ」とも初音ミクとも異なる、所謂「アイドル声優」などに近い存在としてファンに受け入れられており、その前提を無視したことが炎上の第一の原因となっているように思います。


2.フィクションとバーチャルYoutuberの微妙な距離
バーチャルYoutuberブームを受けて、数多くのバーチャルYoutuberが企業や個人の手によって生み出されていくことになりますが、彼女ら彼らはキズナアイの作った基本路線を概ね踏襲しつつも、独自の方向性を打ち立てていくことになります。

フィクション性の高いバーチャルYoutuberとしては、「鳩羽つぐ」や「げんげん」が挙げられるでしょう。前者は(恐らく)幼児誘拐をテーマとした不穏なストーリーの「登場人物」として動画を投稿しており、声優は存在するものの、アドリブや演者のキャラクター性などは極力抑えられています。後者に至っては声優が存在せず合成音声での表現となっており、既存のゆっくり実況などに近いスタンスだと言えます。また、作品も一話完結型のコメディ(?)が多いです。これらのバーチャルYoutuberは、既存の「アニメキャラ」に限りなく近い存在であり、声優は存在していても、主体的な意思などは特に感じられません。

もう少しフィクションの濃度を下げた位置に、キャラとしての「基本設定」を守りつつ演者オリジナルの振る舞いをする一群があり、キズナアイもここら辺に含まれると考えられます。記憶喪失という設定の「ミライアカリ」、月のお姫様を自称する「輝夜月」など、アニメ的な企画動画も実況もこなせる点が大きな強みです。

さらにフィクション濃度を下げ、普通のYoutuberやストリーマーに近い一群には、「バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん」や「月ノ美兎」が含まれるでしょう。前者については、現実的には技術者の男性であることを明かしつつも、ギャップによる笑いを誘う要素として美少女のアバターを利用している例であり、後者については、「真面目な委員長」というアニメ的な設定がありつつも、それを半ば無視して演者の個性を前面に押し出すことでストリーマーとしての人気を博した例です。ここまでくると、「キャラとしての主体性」に疑問を差し挟む余地はほとんどなく、むしろ「普通のYoutuberと何が違うのか?」と(フィクション性の高い)Vtuberのファンから批判されるほどです。

このように、一言で「バーチャルYoutuber」といっても、その在り方は多種多様であり、十把一絡げに「こうだ」と規定できる理路は何もありません。ましてや詳しく知らないならば猶更のことです。


3.バーチャルYoutuberの「主体的意思」について
ようやく本題です。
第一項で私は、「キズナアイには明白な自我と主体性がある」と(あえて)断言しましたが、当然ながら彼女が「AI」であるというのはアニメ的なフィクションに過ぎず、実際にはプロの声優が「キズナアイ」を演じ、その自我を形作っています。*2

そして、バーチャルYoutuberがブームとなり、GREEなどの大手も参画するメディア産業として成長していく過程で、キズナアイのような存在に憧れる女性たちが数多く出現してきます。
彼女らの出自は、ゲーム実況者であったり、ストリーマーであったり、声優の卵であったりと様々ですが、自らの意志で美少女のアバターを利用することを選択したという点ではキズナアイと共通しています。
アバターを利用するメリットとしては、外見的な可愛らしさ以上に、ルッキズムで評価されないというメリットがあります。特に女性のストリーマーの場合、トーク力やゲームの腕前よりもまず外見で評価されてしまう傾向が強かったのですが、バーチャルアバターの登場によりそれが解消され、「(美少女が求められるという)ルッキズム的要請に配慮しつつ、ルッキズムを半ば無視する」というアクロバットが可能になりました。
バーチャルYoutuberには、中の人の顔写真が公開される所謂「顔バレ」をしてしまい炎上した例もいくつかありますが、そうした批判は概ねファンにとっては「無粋」で「心ない」ものと見なされ、顔バレした演者も「美少女キャラ」として引き続き受け入れられているケースも見られます。

女性としての外見的な美しさを問われず、好きなゲームや好みの話題を語ることで、多くのファンの支持を得ることが出来るバーチャルYoutuberは、例えそれが既存の女性Youtuber達の既得権を幾らか侵害するものだったとしても、広範な支持を受けるのが自然ですし、これらが女性の主体的な自己実現の手段ではないと断ずるのは、フェミニズム的な観点から言っても相当に無理があると思います。


4.キズナアイ欅坂46
では、バーチャルYoutuber産業は女性の自己実現のために役立っており、そこにフェミニストの言う「女性性の搾取」の問題など存在せず、批判は全く的外れなものなのでしょうか。

キズナアイは、ことあるごとにアイドルグループ「欅坂46」の大ファンであることを公言しており、関連する動画もいくつか出しています。中には本気でけやき坂46のオーディションを受けるような内容のものもありますが、生放送で脚本を無視してでも欅坂について熱く語ったなどの逸話を見る限り、キズナアイの「中の人」が、アイドルに憧れてエンタテイメント業界に入った人物であることは容易に推定できる事実だと思います。

私の個人的な意見ですが、欅坂を含めて秋元康プロデュースの女性アイドルグループは、「恋愛禁止」が暗黙の了解とされているなど少女への人権侵害的な側面が目立つため、全く好きになれません。
翻って、バーチャルYoutuberであるキズナアイにとっては「恋愛禁止」はさしたる問題ではなく、例え中の人が密かに結婚していようが、それを隠し通すことは容易であると考えられます。何しろバーチャルなので、年も取りませんし、永久に「美しい少女」のままでいられるのです。

しかしながら、それは同時に「キズナアイ」がキズナアイを辞めることが出来ないということも意味します。
欅坂46のような「アイドル」は、アイドルをやめれば単なる女性に戻ることが出来ます。女優として華々しく再デビューすることもできますし、強硬なフェミニストとしてかつての自己を否定することもできるでしょう(アグネス・チャンがそうしたように)。それは本人の女性としての自己決定によるものであり、自由です。
しかし「キズナアイ」は、演者の自我とキャラクター性を強固に結び付けられ続ける限り、キズナアイであることを途中で放棄したり、「普通の女の子」に戻ることはできません。自らの外見が、女性的な魅力を都合よくデフォルメした「アニメ美少女」そのものであると指弾されても、姿かたちを変えることもできませんし、大人になることもできません。そして、強引に「キズナアイ」であることをやめた時点で、それが中の人のセカンドキャリアの形成に役立つとも思えません。

故に、フェミニストキズナアイを批判するとすれば、アイドルに憧れ、都合の良い「アニメ美少女」の表象を身に纏ったはいいが、まさに自分自身が(男性中心の顧客の要望に応えることを中心とした)性搾取的な構造の中に取り込まれ、身動きが取れなくなっているという、まさにその一点を突くしかなかったと思います。
おそらくそのように批判されたとき、キズナアイ(とその製作者たち)は何も言い返せなかったはずです(何しろそれが生業だから)。ただ、一方でアイドル文化もYoutuber文化も、女性が主体的に参加しうるコンテンツである以上は、「性搾取だからやめちまえ」と強引に処断できるような類のものではなく、ならば何らかの形で「中の人」の交代やセカンドキャリアを考える道筋を(女性たちのために!)作っていくことこそが必要だとも言えたのではないでしょうか。


5.おわりに代えて
今回の論争では、批判者同士、お互いがお互いの文化的背景を全く理解せず、一方的な偏見に基づいて処断し、バーチャルYoutuber産業が抱える新しい構造的問題や、既存のアイドル文化を含めた女性差別の問題については、殆ど何も語られることなく、ただ不毛な煽りあいだけが継続するという状況になってしまいました。
ポリコレに違反していようが、誰かを差別していようが、それが文化であり誰かの生きる糧である以上は、その在り方に真摯に向き合い、あるべき方向性を探るのが文化批評の役割ではないかと感じるのですが、そういったことを真剣に語る論者は皆無でした。別に愚かしいなら愚かしいで構わないのですが、真面目にやる気がないなら何も言わずに放っておいてくれたほうがまだマシではないかと思います。既に言い尽くされていることではありますが、文化的摩擦の存在に配慮せず、単に「クールジャパン」のような浅薄な文脈に乗って今回の起用を決めたと思われるNHKにも、大きな問題があるでしょうが、本題ではないので省略しました。

バーチャルYoutuberを目指し、あるいは既に活動している全ての人々の魂に安らぎがあることを望みます。

*1:Ami Yamatoなどの先駆者は居ましたが、日本国内では無名でした

*2:声優が誰なのか、ファンは当然全員知ってるのですが、ここでは特に記述の必要がないので省略します