鴉の爪

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【全編ネタバレ注意】幼子の見る夢と呪われた眼差し―映画「白爪草」について

著名なバーチャルYoutuber電脳少女シロ主演の映画「白爪草」を見に行った。

 


映画『白爪草』予告【2020年9月19日(土)公開】

 

「世界初のVtuber主演映画」などと謳われた本作は、一見すると単なるファン向けのアイドル映画にしか見えないのだが、9/19の公開後、口コミで反響を呼び、上映わずか二館で観客動員数の全国ランキングに入るなどの快挙を成し遂げている。


一体「白爪草」はどのような映画なのか。ネットを見ると「ワンシチュエーションサスペンス」「サイコスリラー」「ミステリーホラー」等の評判が断片的に見えてくるが、物語の内容に触れない限りは、このカルト的傑作に隠された仕掛けは何も見えてこないだろう。よって本レビューでは物語の核心に触れる内容をガシガシ述べていくので、未見の方はお読みになる前にぜひ映画館に足を運んでいただきたい(10/2で上映終了予定とのこと)。

 

21/1/30追記:チケットぴあでのオンライン上映が開始しています。下記のツイートを参照。

 

 

1.鏡写しの双子


レビューを行うために、物語のあらすじを簡単に追っていこうと思う。

 

物語の主人公は、電脳少女シロが演じる*1白椿蒼という女性。推定年齢19~21歳の彼女は、高校卒業後、花屋の店員として働きながら生計を立てつつ、桔梗なる女性医師からのカウンセリングを受けていた。桔梗の助言もあり、彼女はある理由により6年間服役していた一卵性双生児の姉、白椿紅と再会することを決意する。

 

蒼は紅と取り留めのない会話をしながら、まるで鏡写しのように同じ仕草で紅茶を飲み、菓子を摘まんでいくのだが、二人の間には大きな花飾りが鎮座しており、お互いの姿を視認することが出来ない。そんな状態の中、会話は紅が6年前に行った犯罪について触れていく。

 

紅は、6年前(作中の情報から推定すると、彼女が中学生の頃と思われる)に両親を毒殺した罪で少年刑務所に服役し、最近になって社会復帰したのだった。蒼は紅に、両親を殺害した動機について問い詰めるも、紅は記憶にないと回答する。蒼はその回答に怒り、紅に「私の重荷を降ろしてくれないの?」と詰め寄るが、唐突に意識を失いその場に倒れこむ。

 

意識を取り戻すと、蒼は紅の格好で縛られており、紅は蒼の格好になっていた。紅の目的は、蒼に成りすまして自身の犯罪歴を消し去り新たな人生を歩むことであり、その理由は、蒼が両親殺しの罪を自分に擦り付けたからだと語る。蒼は両親殺害の真犯人が自身であると認めつつ、自身を殺そうとする紅に、殺したところで死体の始末はどうするのか、どうやって警察から逃げ切ろうというのかと逆に問い詰める。「待っているのは結局地獄だよ」。蒼の説得に応じた紅は、ではどうすればいいのかと蒼に尋ねると、蒼は罪滅ぼしの為に自ら紅と入れ替わり、自身は適当な時間を過ごしてから紅として自殺すると宣言する。

 

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こうして目論見通り蒼との入れ替わりを果たした紅だが、実はそれはカウンセラーの桔梗と仕組んだ策略であり、蒼にカウンセリングを介して両親殺害の犯人が自分であると思い込ませ、罪を擦り付けた上で人生を丸ごと奪おうとしていたと明かす。計画の成功を確信した紅は、花弁が舞い落ちる夢想的な光景の中で高笑いをしながら踊る。両親を殺害した本当の動機は、蒼を不幸にしたかったから。紅は蒼によって奪われてきた自身の幸福がようやく取り戻せたと語る。

 

三か月後、蒼の遺品のブローチと日記が紅のもとに届く。日記を読むと、蒼が生前、紅と同じ罪を背負うために無差別連続殺人を犯していたことが書かれており、さらにその死体の一部は花に隠す形で処理したと述べられている。ハーバリウムに残された人間の「爪」で日記が真実と確信した紅は、鏡の中の自分を見て、恐怖のあまり絶叫する。

 

エンドクレジット後、花屋で作業をする紅のもとに何者かが来訪してくる。カメラは花冠の隙間から覗き込む紅の姿を映し、物語は終わる。

 


2.鏡像の二人、そしてファリック・ガールとしての蒼≒電脳少女シロ

 

フランスの精神分析家、ジャック・ラカンの理論に「鏡像段階論」というものがある。これは(哲学素人である筆者の観点で)非常にざっくり述べると、精神分析の見地から、人間の幼児が発育過程において、いかに自我を獲得するのかをラカン流に考察したものである。

http://www.ne.jp/asahi/village/good/lacan.htm
鏡像段階は一次的ナルシシズムの到来であり、しかもこれはまったく神話の意味でのナルシシズムである。というのは、鏡像段階は死、つまりこの時期に先行する期間における生の不全という限りでの死を指し示しているからだ。

幼児は、前鏡像期においては寸断されたものとして生きている。たとえば自分の身体と母の身体との間、あるいは自身と外界との間に、なんらの差異も設けない。ところが母に抱かれた幼児は、自分の像を認めることになる。実際、幼児が鏡の中の自分を観察し、鏡に映った周囲を見ようと振り向くのを見ることができる(これは最初期の知性である)。そこでこの幼児の身振りとはしゃぎぶりから、鏡の中にある自分の像に対しある種の認知がなされているのがわかる。そして彼は、自分の動きが鏡に映し出された自分の像や周囲ともつ関係を、遊びながら試し出す。

互いに向かい合った幼少の子供にみられる転嫁現象にはじつに驚かされるが、そこでは文字通り他者の像にだましとられている。ぶった子がぶたれたと言い、そちらの子の方が泣き出してしまう。ここに認められるのは、想像的審級つまり双数的関係、自身と他者の混同であって、人間存在の構造にかかわる両価性と攻撃性である。

 

http://kagurakanon.sakura.ne.jp/10200.html
ではこうしたイライラはなぜ起きるのか?よくよく胸に手を当てて考えてみると、案外と自身の隠れた理想が反転した形であることが実に多かったりもする。我々はまさに自身の理想を他者に奪われているからこそ、双数関係的にイライラするのである。

けれど、こうした感情はむしろ人として自然なことであろう。何をやっても上手くいかない時はある。人はそんなに強くはできていないし、世の中努力は必ずしも報われない。「あいつさえいなければ」と、誰かを恨みつらむことでしか心の平衡を保てない時期もあると思う。

もちろんこれは本質的な解決ではない。結局のところ、人は自らの理想と対決していかなければならない。

 


非常によく似た双子である紅と蒼は、互いに理想の自我を投影し合っており、想像的な次元において、互いを鏡に映った他者=自分自身であると捉えている節がある。紅の蒼に対する(端から見ると筋違いな)憎悪と、蒼の紅に対する(ナルシスティックで歪んだ)深い愛情は、年齢不相応に未熟な自我を保ち続けている二人が、互いを文字通り他者の像として騙し合っているからこそ発生した感情なのではないか。

 

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上記引用サイトに書かれているとおり、通常はこうした鏡像的関係を承認する位置に第三者としての他者=両親がおり、子は親との関係性≒社会性を徐々に形成していく段階において、幼児的万能感から脱し、「大人」として社会のルール(象徴界)に従って生きるようになっていく。

 

しかし、物語の開始前に両親は既に紅によって殺されており、前科者として社会から爪弾きにされてきた紅は勿論、蒼もまた一人前の大人になる前に社会に放り出されてしまったように見える。未熟な彼女たちは、少女としての理想*2を色濃く残した自我と酷薄な社会とのギャップに耐えられず、「生きているのか死んでいるのか」さえもよく分からなくなってしまっている。そして、狂言回しのカウンセラーが彼女らの心を外部から弄くったことにより、二人の狂気は大きく加速していくことになるのである。

 

想像的な理想を夢見ながらも、社会からの仕打ちを前に苦しみ、運命を変えるために足掻いているのが紅なら、自ら作り出した想像的世界*3に安住し、誰も傷つけたくないと願うばかりに正反対の攻撃的狂気に陥っていくのが蒼であるとも言えるだろう。そしてこの蒼の立ち位置は、普段バーチャルアイドルとして活動している主演女優・電脳少女シロの存在ともある意味でダブっている。

 

どこまでも「想像的な」世界であるバーチャル空間にいながら、彼女は声優やタレント・MC業もこなせる卓越した知性と演技力を備えたプロ中のプロである(と、一ファンの私は思っている)。バーチャルYoutuberとしてはキズナアイに次ぐ活動キャリアを誇り、誰よりもバーチャルの可能性と限界を知り尽くした彼女が、心から楽しそうにはしゃいでみせるのは、ゲームで敵を次々とブッ殺している最中である。
知らない人から見れば少々荒唐無稽にも見える蒼の連続殺人は、彼女が象徴界に「去勢」されなかった想像的ファルスを駆使するバーチャルアイドル*4である事実を持ってメタ的に補完されている。映画「リング」松嶋菜々子が最後に生き残る展開に説得力を持たせているのは、彼女の演技力では無くスター性であるのと同じように、バーチャルアイドルが「女優」として出演していることに、明確な意味を付与した脚本だからこそ許される力業と言うべきだろう。

 


3.「現実界」からの眼差しと恐怖、紅の「対象a

 


ラカンの有名な理論として、鏡像段階論の他に、先ほども少し述べた「現実界・象徴界・想像界」「対象a」と言ったものがある(順番が前後して申し訳ありませんが、詳しくはリンク先を参照してください)。「対象a」の方は、名作アニメ「ひぐらしのなく頃に」シリーズでもそのものズバリなタイトルのテーマソングがあるくらいなので、サブカル好きなら聞いたことがあるかもしれない(そういえばあの作品にも、物語上重要な立ち位置に双子の美人姉妹が登場する)。

 

「白爪草」の物語を俯瞰的に眺めたとき、紅にとっての「対象a」は蒼であるように見える。2.で述べた論理に従うなら、蒼は紅にとって最初の他者であるから、これはある意味で当然だ。しかし、対象aの恐ろしいところは、それが想像的な他者に止まらず、現実界象徴界の間を揺れ動く点にある。

 

ホラー映画としての本作の白眉は、なんと言っても紅が蒼の日記を黙読し、恐るべき真実を目の当たりにする一連のシーンだろう。紅は激しく狼狽しながら花屋の室内を彷徨い、鏡に映った己の姿を見て恐怖のあまり叫び声を上げてしまうのだ。

 

鏡の何が彼女を恐怖させたのか。恐るべき妹、蒼の姿が、鏡に映った自身にそっくりだったから。あるいは、自分自身が蒼になってしまったと改めて自覚したから。王道の解釈は差し詰めそんなところだろう。しかし、私は少し違う考えを持っている。

 

蒼と紅は、そっくりな双子という設定ではあるが、よくよく見ると少しずつ違う。髪型も違うし、声の感じも違うし、顔つきも微妙に異なっている。紅にとって、蒼が自分にそっくりなのは生まれたときから知っている事実である。鏡に「蒼」の姿が映ったくらいで、今更そんなに恐怖するだろうか。

 

しかし、姉妹ではっきりと同じ部分がひとつある。眼だ。

 

恐らく意図的だと思うが、眉や眼つきで区別は出来るものの、姉妹の眼は同じ3Dパーツが使われているように見える。それが蒼のものか紅のものか、髪型などの情報が無ければ判断できない。その特性はラストシーンにも最大限生かされている。

 

ラカン理論における「現実界」とは、お母さんが言う「Vtuberなんか見てないで現実を見なさい!」の「現実」のことではない*5。それはトラウマであり、語り得ないが確かに存在するものであり、触れることで人を狂気に陥れてしまう恐るべき何かである*6。紅はあの鏡から、現実界を示す対象a、つまり蒼の眼差しを見てしまったのではないか。自分自身の内側と外側にあった、空虚なる欲望の対象。対象aの代表的存在として、ラカンは「乳房、声、糞便、眼差し」の四つを挙げている*7

 

 http://www.suiseisha.net/blog/?page_id=12693
飛躍を恐れずにいうと、今日のまなざし論は、じつはみなさんがよくご存じの物語と同じ構図をもっています。賢治の『注文の多い料理店』です。キアスムというのは、自分がまなざしていると思っている主体が、じつは他者からまなざされていたのだと気づく契機を含んでいます。賢治の世界ですよね。賢治の物語では、自分が食べるつもりで「山猫亭」に入ってきた人間たちが、じつはいままさに食べられつつあることに気づいて恐怖する。

 

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蒼に眼差され、精神的にも社会的にも蒼に同一化してしまった紅は、蒼の残したものを背負いながら、何を見つめようとしているのだろうか。それは劇中の「真実」を越えた、バーチャルYoutuber達と同じく想像的な「現実」を生きる、我々観客に対する眼差しであったのかもしれない。

*1:バーチャルYoutuberなので、声はもちろん、3Dモデルも彼女自身のものを流用している。さながらVtuberによる演劇である

*2:お花屋さんになるのが夢とか、彼氏を作ろうとしないとか

*3:花が満ちあふれた映画のビジュアルは、少女の夢想を越えて最早悪夢的でさえある

*4:斉藤環風に古い言い方をするなら「戦闘美少女」

*5:このように日常的な意味での「現実」は、ラカン理論では人間の認識できる世界の一部=想像界に属する

*6:ラカンは、人は死ぬ時にだけ「現実界」に触れられるとも語っている

*7:恐ろしいことに、(貴方がファンなら知っているだろうが)これらは全て「電脳少女シロ」を象徴するキーワード達である